
東京府東京市麻布区新堀町に生まれる[1]。 昭和6年(1931年)に京都府立第二高等女学校を中退後に宝塚音楽歌劇学校に入学して、宝塚少女歌劇団に入団。宝塚歌劇団21期生。作曲家の山田耕筰が名付け親となって、娘役として活躍する。同期生に初代・糸井しだれ、水間扶美子(退団後は服部富子)、打吹美砂(入団時は打吹たもと)らがいる。日本的な美しさが人気を集めて、主演娘役となる。 昭和12年(1937年)、日活が映画『宮本武蔵 地の巻』(尾崎純監督)の主演女優選びに難航。プロデューサーを務めた稲垣浩はタカラジェンヌから選ぶこととして、轟に着目した。宝塚少女歌劇団を退団させて、お通役で映画デビューさせた。この電撃的な引き抜きは世間を驚かせ、大事件となった[2]。 同年10月、日活映画『江戸の荒鷲』の撮影中に失明騒ぎを起こしたことがきっかけで、監督のマキノ正博と懇意となる。 昭和15年(1940年)、マキノ監督と結婚、長男正幸誕生。 昭和17年(1942年)、映画統制により、日活の製作部門は大映に統合されるが、轟は大映には加わらず、夫・マキノ正博の所属する東宝へ移籍する。 昭和18年(1943年)、黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』のヒロイン小夜役で人気を集める。同年、映画『ハナ子さん』主題歌、「お使ひは自轉車に乗つて」がヒット。 戦後フリーとなるが、加齢によって肥満するなど容姿に変化が出てきたことや、時代の流れで新しいスターが次々に出て来たこともあり、脇役に転身。昭和30年以降は映画製作を再開していた古巣・日活と専属契約を結び、40本を超える映画へ出演。シリアスからコメディまでこなせる性格俳優として活躍し、晩年は男の紋章シリーズ(昭和38年-41年)で高橋英樹の母親役を演じた。 昭和42年(1967年)5月11日午後5時15分、閉塞性黄疸のため、東京都北多摩郡狛江町(現・東京都狛江市)の東京慈恵会医科大学附属第三病院で逝去。49歳没。佳人薄命そのものの人生であった。 没後、平成26年(2014年)、宝塚歌劇団創立100周年記念で創立された宝塚歌劇の殿堂に、最初の100人のひとりとして殿堂入りを果たした。殿堂入りしたタカラジェンヌで、轟は2番目の若さで没した人物であった。

あいつと私

細雪

誘惑

女中ッ子

細雪

女の暦

洲崎パラダイス 赤信号

男の紋章

愛のお荷物

姿三四郎

続・飢える魂

赤い波止場

母は死なず

グラマ島の誘惑

飢える魂

男の紋章 風雲双つ竜

續 姿三四郎

武蔵野夫人

陽のあたる坂道

必勝歌

爆音

肉体の門

娘の冒険

銀座の女

生きとし生けるもの

当りや大将

欲

撃滅の歌

一等女房と三等亭主

箱根風雲録

春秋一刀流

僕たちの失敗

一等マダムと三等旦那

男の紋章 喧嘩街道

男の紋章 流転の掟

陽のあたる家

ガラスの中の少女

天晴れ一心太助

ハナ子さん

旗本退屈男 謎の百万両

郷愁

七つの顔

多羅尾伴内シリーズ 曲馬団の魔王

金色夜叉

続金色夜叉

源太時雨

次郎物語

月夜の傘

女嫌い

歌へ!太陽

こころ月の如く

幽霊暁に死す

限りなき前進

青春怪談

お転婆三人姉妹 踊る太陽

チャタレイ夫人は日本にもいた

才女気質

男の紋章 花と長脇差

続 男の紋章

日常の戦ひ

新・男の紋章 度胸一番

森の石松

女子寮祭

男の紋章 俺は斬る

若い川の流れ

窓から飛び出せ

第五列の恐怖

處女峰

三万両五十三次

人生劇場 第二部

白い牙

あじさいの歌

美男お小姓 人斬り彦齋

咲子さんちょっと

山のかなたに